どんなに強靭な肉体を持つものでも一瞬にして生きることを奪われるんだ

I Walk alone, I Walk alone.
photo By Gaia (

今日、お昼頃だったか。
何気なくtwitterを見たら、
サッカー元日本代表の松田直樹選手が亡くなったというニュースを見た。

あまりにも突然の死だった。
正直な話、オレはスポーツに特に興味がない…と言ったら語弊かもしれない。

あまり詳しくなれないのだ。
だから、ワールドカップや先日のなでしこジャパンの活躍も
世間の目からは一歩引いた場所で見ていた。

今回の松田直樹選手のニュースもどこか一歩引いたところで見ていた。

急性心筋梗塞だったらしい。

そもそも、心筋梗塞っていうのは、
"心臓を動かす筋肉(心筋)へ酸素や栄養を運んでいる冠状動脈に血栓が詰まってしまい、
心筋の細胞が死んでしまう症状
"のことらしい。

急性なので、それが急に起こることを指していて、
今回は本当にその症状が急に起こり、
亡くなってしまったということだ。

どんなに体を鍛えたアスリートも
体の内部がやられてしまっては
生きていけないわけだ。



生きることっていうのは
常に死と向き合っていることだと思うわけです。

この1秒後にもしかしたら、死ぬかもしれない。

何気ない瞬間の中で
"生きている"っていう事自体、
奇跡なのかもしれない。

その奇跡の繰り返しの上に生きるというものが成り立っている。


言葉で説くのは非常に簡単だ。

言葉を並べるだけで
生きるということの重みを
もしかしたら伝えられるかもしれない。

だけど、実際に生きることとはまた別だ。


生きることをどれだけ真面目に考えたって、
実際に生きていくことは大変だ。



どんだけがんばってもかなわない夢はあるし、
毎日大変な仕事が目の前に待っているし、
家に変えれば考えることがたくさんある。


生きること自体、
もしかしたら苦痛なのかもしれない、と
頭をさらに悩ませることになるかもしれない。


でも、時に真面目に生きることについて考える。


こういう時じゃないと考える機会がないかもしれない。



生きるってなんでしょうか。


改めて考えてみませんか?

日常にある
何かの下敷きになっている
生きることと向き合うこと。


答えなんて出なくてもいいと思うんです。
むしろ、正解なんてないと思うし、
確固たる回答なんてないはずだ。



自分なりに生きることに対して向きあうこと。


こうやってブログを書いたり、
読んだりしている中のちょっとした時間でも、
生きることについて考えてみる。


強迫観念を押し付けるわけじゃないけど、
明日もしかしたら、生きることを剥奪されるかもしれない。

その前にちょっとだけ生きることについて考えてみる。

もしかしたら、それが時に希望になるかもしれない。




なんかそういう日常の隙間から見えるものがあるかもしれない、って思う。